【日記】「日記」はメモたり得るのかという疑問

護国神社の遺品館入口。最近は開いていることが多い。

今日は週初め恒例の『参拝の日』。最初は宮崎天満宮から回って、その後で宮崎神宮護国神社に行った。天満宮に行ったときは前回停めた参拝者用の駐車場ではなく、天神山公園の駐車場の方に停めてから歩いて行った。台数も余裕在るし道がボコボコではなかったのでその点は良かったが、前の道が軽自動車でも離合不可能なほど細かったので別の意味で心臓に悪かった。そしてそこはかとなく停めた車の中でお昼寝してる人が多かった。中型バスもあったし。大丈夫かここの治安。

写真は護国神社の遺品館の入口。参拝始めた頃はずっと閉まってて「ここ何の建物?」と首をかしげてることの多かったこの遺品館だが、ここ最近は開いていることの方が多くなった。まあ冬で乾燥してるから、中にある展示物にカビ生えないようにという管理上の計らいなのかもしれないけれど。

入口が開いているときは、入口向かってすぐ左の壁にあるお賽銭箱に100円入れて帰るのが習慣になっている。維持管理に役立ててくだせぇ。

その後、買い物を終わらせて家に帰ってからは、コロナ罹患以降大穴空きっぱなしになっているほぼ日カズンの日記をひたすら埋める作業に邁進していた。12日から埋め始めて、今日がえーと……26日?(死滅) 終わっとるマジで……

確かに一日で終わるとは思ってないけどさ(血涙)

そんなわけで粛々とグレゴリオ聖歌かけながら日記を書き進めてて思ったのだが、日記ってこれ、見方を変えれば「その日あった事のメモ」的な物だよな? 書き留めることで記憶に残すってのはメモの存在理由のひとつである事は間違いないから。

でも、日記で発想メモをやろうという思考には何故かならないんだ。

これはなんでなんだろうかなっていう疑問を抱いた。人によっては未来の姿を先に喜び、祝ってしまうことで現実を引き寄せる『予祝』という書き方をする人もいるが、あれは発想メモ的な使い方の一貫なんではないかなと思ったりする。

そういう使い方を日記でしようとは思わないんだよなぁ、何故か。なんでなんだろう。私的にはあくまでも日記は「その日一日の記録」がメインコンテンツなのであって、それ以外は書いてはいけないという風にでも思ってるんだろうか。

考え方によっては『今日の二人は何してる』を日記の上でやってもいいようには思うんだよな。特に穴が空きすぎてその日何やったか思い出せない日とか(

でも現実をそのまんま書いている日記に虚構を持ち込むのも何だかなって気もしていて、そういうところを考えるとやはりメモはメモでも「普通のメモ」程の自由さはないのかなって、そんな気がした。

……いや、何書いても自由なはずなんだけどね。本当はさ。

固定観念って言うのはそういうものなんかもしれないね。