そして思います。文章は、そのつど書かなきゃ駄目ということを。経験を積んでから、十分学んでから、時間ができてから書くのではない。断じて違う。そのつど書く。自分の不十分さをたっぷり自覚した状態で書く。そうでなければ、いつまでたっても書けやしない。
— 結城浩 (@hyuki) 2017年11月16日
「現在の自分の最前線」を書いていないと、書くことが面白くなくっていくのだろうな、と感じる。「書くこと」は二重の意味で。 https://t.co/A6iMzOhWjq
— 倉下 忠憲 (@rashita2) 2020年7月24日
『時間空いた時に書こう』と思っても、
そんな暇は一生来ない。
書きたいものがあるのなら、作りたいものがあるのなら、
常に走り続けながらどうやって形にするかを模索し、手を動かさなきゃならない。
改めて、自分の惰性に唾を吐きかけたくなるな。
『その時の自分でなければ、書けない文章がある』――
常に、『自分の最前線』を書き続けるという事。
その『現在の自分の最前線』の書き方として
— 不来方依玖重 (@shanvelta) 2020年7月24日
ひとつ確立しているのが、『日記』なんじゃないか。個人が一番やりやすい最善の方法として。『記録』としての役割もそうだけど。 https://t.co/toaa3PaANF
私はそのひとつの道として、
『日記』がそれに使えるのではないかという事を考えた。
それが単なる記録で終わるにしても、読み物として成立するにしても、
そこには間違いなく『その時書きたいと思った事』が綴られているのだから。
その時の自分にしか書けなかった知見と言葉で。
旧『あいざわ雑記』の文章も一部本館に持ってきたいと思ってはいたが、
未だ実行に移せていないのは、『その行為が必要なくなったから』かもしれない。
今なら、あの頃から更に突っ込んだ視点で切り込んでいくことも可能だろうけど、
そこに必要性を全く感じていない。
彼処で綴ったのはだいたいが当時やってたゲーム(DMM系)の話だが、
アカウントを消して縁を切った今、そこに含むところは何もないし、
何より『ブロガー界隈』を見た事によって、
『信じる者はどうあっても救えない』
という結論に達したからだ。どれだけ啓蒙してもこちらの時間と資源の無駄。
せいぜい、対外的に『彼処には近づくなよ』と言う程度くらいの事しかできない。
それに、私自身、今の本館形式で書いてる文章の方が楽しい。
批判は交えず、ただ自分の楽しいと感じる事や、溢れる知識を
自分の好きな形で書き出していく。それが楽しくてたまらない。
ムスメが居る事で時間と体力の制約が厳しくなっているのが唯一のネックではあるが、
それでも私は『今の自分にしか書けない事』を形にするため、
隙を見つけては走り続ける。ゆっくりでもゆるくても。