【言論屋】情報発信の変遷の歴史に思いを馳せて

 『ごく単純に、特定のプラットフォームがなくても
 「仕事」(お金を生み出せる行為に近似)ができるかどうかが、
 情報資本主義社会での生産手段の有無だと捉えられないだろうか。』

 その一連の問いに対する私の答え。
 実際にネット有史から紡がれる発信方法の変遷の中で、既にそれは存在してて
 いくつものサイトができてはひときわ光り輝くものが耳目を集め、
 噂が人を呼んでは雑誌や書籍などのメディア・ゲスト出演と活躍の輪を広げていった。
 この頃、必要だったのはHTMLを打つ技術と、ファイルの置き場だけだった。
 だから、既にその時点で『プラットフォームに頼らない仕事』という行為は成り立っているわけだ。
 それが技術の進歩と共に変遷を経てCGIプログラムからブログに変わり、Pixivやなろうのような同人界隈の投稿特化サイトができ、noteなどの『もっと使いやすいサービス』へと洗練されていった。
 それは、スマホ普及をきっかけにしたネット人口の爆発的増加により、利用者の間口を広げるためには『機械音痴でもそこそこ使えるサービス』にしておく必要があるからだ。

 だからこそ、今までは『パソコンの知識』『HTMLの知識』などが純然な参入障壁になっていたものが、使いやすいサービスになればなるほどその参入障壁が低くなり、結果としてここで言及されている『名ばかり情報資産家』の大量流入に繋がった。
 この流れに更に拍車をかけたのが、『ネットで楽して稼げる』と謳いながら客を囲うために社会不安や自己存在の不安定さを煽る『似非インフルエンサー』こと情報商材屋と、アフィリエイト・Google Adsenceといった広告リンクによる金銭報酬が発生するシステムそのものである事は間違いない。
 その甘言に人生一発逆転の夢をかき立てられた者が生産者になり、やがて彼らもまた誰かを口車に乗せて、自分の下に新たな生産者を作っていく。

 そういう現状が蔓延してしまった結果が、
 この『検索したらゴミだらけ』の電脳の海だ。

 情報は持っているだけでは意味を成さないし、
 物質であれ行動であれ、実態を帯びた『なにか』と結びつかないことには何も生まない。
 例外は『物語』などの文芸作品だが、あれらは『見た人間の心に何らかの作用を及ぼす』事が『実態との繋がり』と言えるだろうし、『娯楽』と『情報』を同列に扱うのは意見の割れるところかもしれない。
 プラットフォームもそれそのものは単なる『道具』『手段』でしかない。
 使う側の人間次第で汚れもすれば輝きもする。

 ――話を纏めると、それはもう既に通ってきた道なんだよ、って事。
 洗練されたプラットフォームは、更に『情報生産』『知的生産』を簡単に、より身近なものに、より対価を得やすい仕組みにするだけ。それだけの話。

 そこに集う人間の質は問わずに、な。