昨夜は書いた記事を痛恨の操作ミスで吹っ飛ばしてしまい、凹むこと10分。あまり凹んでいても睡眠時間が減るだけなのでさっさと寝てしまうことにした。今日も朝から雨でムスメを車で学校まで送る仕事があったからね。仕方ないね。
そんな日のちょっとした癒しに日刊朝顔。2日振りである。学校に行く前はキレイな丸いお花を見せてくれていたのだが、いざ学校から帰ってきてさぁお水やるか、で改めて花を見てみると強風に吹かれて花がしぼんでしまっていた。早いよ( ;´Д`)
昨日は最上位者(ばぁば)が亡くなった親戚の告別式に向かって車がない中、徒歩でムスメを迎えに行ったら学校の周りに自生するランタナがキレイなお花を付けていて、ムスメと「キレイだね」と言いながら帰ってきた。
で、その際ムスメが花が半分以上撮れてしまった一輪のランタナを見つけて、「どうしてこんななっちゃったの」と悲しそうに一言つぶやいた。ムスメよ……朝顔もそうだけど、お花はずっと咲いてるわけではないんだよ……
さて、キレイなお花の写真を眺めたところで、本題に行こう。
実は月曜日にお通夜に出かけた最上位者と上位者(パパ)が『枝折(しお)りのみち』という小さなリーフレットを机の上に置いていて、
「清め塩」は殆んどの葬儀で会葬礼状に挿入され、なかば習慣化されてきましたが、仏教の教えに照らし、これを廃止することに致しました。
仏教では、生と死は一つであると教えています。
また、葬儀は、愛するものとも、必ず別れなければならないという事実(愛別離苦)を真正面から受けとめ、わが身を見つめ直す厳粛な儀式です。
仏教では決して「死」を「穢れ」とすることはありません。
従って、死を「穢れたもの」として「お清め」する「清め塩」を廃止することにした次第でございます。何卒以上の趣旨をご理解賜りますようお願い申し上げます。
お清め塩廃止とな?
何というか、珍しい。最近ではこれが普通の流れなのかね?
……ということで、ちょっと気になったんでいろいろ調べてみることにした。
まず、仏教では死を「穢れ」としないのは本当のことで、「清めなければいけないような穢れたものは葬儀の場にはない」とするのが本来の考えのようだ。特に「死ねばみんな極楽浄土へ行ける」とする浄土真宗では、塩を撒いて清める行為は逆に失礼にあたる正しくない行為だとされ、反対の声を上げたことから後に他の宗派も追随するようになった。
じゃあそもそも死を「穢れたもの」とする習慣はどこから来たのかというと、実はこれ、神道の考え方だったりする。神道の「お清め」は「御霊の帰る場所を清めるためのもの」として玄関の盛り塩だとか神棚の塩とかいろんな所に盛るけれど、それが「穢れた身体を清めるためのもの」として使われるようになったのはかなり昔から行われてきたんだそうだ。
むかーしむかし、まだ「医学」という概念がなかった頃、元気だった人が突然病に倒れるのは「なにかの祟り」とされることがとても多くて、その祟りを呼ぶのが「穢れ」ということ、また衛生の知識も乏しかった時代、「清める」効果のある塩には「身をキレイにする」効果もあると信じられ、定着していったのが「お清めの塩」だったと。
結論:仏教と神道がごっちゃになったせいで生まれた習慣
……こんな習慣、他にもあったような。
「実はコストカットの手段のひとつ?」なんて穿った見方をしてたりもしたんだけど、塩なんて1kg150円とかで買えてしまうようなものだし、たとえ乾燥剤が入っていたとしてもそのコストは微々たるもんだろうし、あんましカットしても仕方ないよなぁ。
何にしても、今後もお清めの塩は葬儀場からは消えていく運命にありそうだし、これからは自分で塩を持ち歩く必要というのも出てくるのかもしれない。そのうち個包装にした塩を葬儀用品として100円ショップなどで売り出す時代が来たりして。
参考にしたサイトは、以下にリンクを載せておく。