キライだけど、『決めなきゃ』生きていけない

 やっぱり働きたくない。

 でもお金はない。

 

 昨日夜遅くにパパパと話をしていた事。

 私は「時間の使い方に対する満足度が著しく低すぎる」と言われる。

 常に色々な時間術を試したり、細かい作業や嫌な家事を早く終わらせたりなんだりして時間を捻出する事はするのだけれど、その時間でやってる事はと言うとつまらないし反応があるわけでもないTwitterのタイムラインをぼーっと眺めてたり、『作業音楽を探す』という名目で動画を探しに行くと、そのままダラダラと動画を見てたり。

 「違う、私が今やりたいのはそういう事じゃない」と頭の中では意識があるけれど、実際にその状態でテキストエディタを開いても何も文章が思いつかなかったりするし、結局何も書けないまま、真っ白なエディタを見つめてたりする。で、その結果、「時間はあったけど何もできなかった」となって、時間を捻出してくれた人達をやるせない気分にさせるし、自分自身も「やっぱりダメな奴」となる。

 

 要するに、時間の使い方がドヘタクソ、という域を超えて、思ってる事とやってる事の整合性が取れていない状態らしい。

 「『今の時間は○○をする』という覚悟が無いから」という風にパパパは言っていた。

 

 決断とか、覚悟とか、責任とか、本当はみんな大嫌いだ。

 『別の決断をしたら、もっと違った結果が待ってるんじゃないか』『そんな責任背負わされても困る』『そんな責任取らされたら、碌な事にならない』そんな事ばっかりいつも考えてる。

 常時、その時その時をふわふわと楽な方に漂う生き方しかしてこなかったし、自分と向き合う事も特段してこなかったから、そうした『重いもの』を背負わされて生きると言うことに耐えられないのだと思う。願わくば、このままふわふわと漂ったまま生きていきたい。

 でも、現実はそんな漂っているだけの人間を生かしておいてはくれない。

 

 結局、私も他人の事が言えない程に現実逃避を続けているわけだ。消えない生きづらさを抱えながら。

 滑稽だとしか言いようがなくなってきた。つらい。

 

 働くと、今のように使える時間はなくなってしまうから――というのが働くのが嫌だと思っている一番の理由だが、では今までも「時間は沢山あったのに、何かひとつでも成せたことはあったか?」と問われれば、「ない」と言わざるを得ない。

 時間があってもなくても一緒なら、『時間の使い方の密度を上げていけ』という話になった。少ない時間でより多くの、よりよい物を残す。今と変わらない生活をする。そうすれば、自ずと『時間の使い方に対する満足度』は上がるはずだと。

 

 そのためにどうすれば良いかは、まだ自分の中でハッキリとはしていない。

 ただ、『ここでは○○をする』『今日はこれだけのことをする』という小さな決断を、たくさん積み重ねるしかないということだけは、ぼんやりと頭の中にある。

 今は、それだけを粛々とやっていくことにしよう。